森山大道 写真集「蜻蛉(かげろう)」日本人の暗闇 エロス、暴力、死

緊縛と言うと、なにか特殊な性嗜好を持つ人たちだけのことと思われる方も多いと思います。ですが個人的な話で恐縮なのですが高校生のころ何気なく入った映画館で観た映画、いまでは題名さえ憶えていないのです。そのなかで身重の女房を殺害された男が、犯人(女性です)をわざと脱獄され直接復讐する話がありました。男はならず者達を雇い担当の女看守長を輪姦して、彼女に手引きさせ犯人を刑務所から脱獄させる。最後にはその復讐しようとした男も犯人に殺害されてしまうと言う、救いようのない話でした。

当時、割りと純粋で純情な高校生であった私は輪姦のシーンで、輪姦される看守長をものすごく哀れに思いましたが(タイタス・アンドロニカスのラヴィニアの様でした)、刺激強すぎでそれと同時に心のなかでなにか黒いものが胎動するのを感じた(疼くといったほうは適切かもしれない)、はっきり言うと自分もその暴行している連中に加わりたいと思ってしまった。
そのことで悩んだりして、自分で自分を去勢すべきではとか真剣に考えたりもしました(笑)。

(でも結局映画の暴力やエロもエンターテイメントなんですよね)

その後、フロイトなどの心理学の本を読んでり、増村保造監督・三島由紀夫原作の「音楽」を見て原作を熟読して理解したのですが、あの時感じたどす黒い欲望、それは男として決して不思議なことではないということでした。
性欲のこと、暴力による快楽がある事(人間は暴力により快楽を感じること)またその逆もあること、サド(加虐性愛)とマゾ(被虐性愛)は神経症の一種であること一般的な人でも大なり小なりその要素を持っていること、極端な場合は治療の必要があること(田代まさしがのぞきと盗撮で逮捕されましたがあれは視姦症か窃視症と言う神経症です)。セックスと暴力(攻撃性)は非常に関係が深いこと。

そうです、人間はそのままだと壊れているものなのだと、壊れているからこそ宗教や道徳、倫理とかで枠をはめて社会生活を送っているのだと。
そして一番衝撃的だった事は性欲は、生殖欲よりも排泄欲から来ていることでした(正式に心理学を学んだわけではないので大した事は言えませんが)。

森山大道の写真集「蜻蛉(かげろう)」はある意味厄介な性と言うもの、特に日本人の性に対しての因習というか、ダークな一面に対して目を向けた稀有な写真集だと思います。
またそれはタブーに対しての写真をとうしての攻撃です。(荒木経椎もタブーを攻撃したけれど、森山大道のほうがシャープな気がします。また
SM雑誌やアダルトDVDあたりで、壊れかけた人間又はこわれたと演技している人間をみせるSMプレイを売り物にした商業主義ものとは全く違うシリアスなものです。)

写真集を一見して感じることは、不条理さでしょう。写真は農村で撮影されています、正しく因習渦巻く場所と認識できます。日本人の土俗的な精神のふるさとをイメージさせます。

そこに突然ありえない全裸の女が被写体として現れます。農家の庭先、農家の部屋のなか。シュールで、例えるならば幽霊。そして、モデルたちは緊縛という暴力にさらされている。この辺り日本の女性が日常のなかで性暴力と紙一重の所にいる様な連想をさせられます。サド(加虐性愛)やマゾ(被虐性愛)は日本の風土のなかに胎胚されているような不思議な印象を受けます。
これは日本の村社会の閉鎖的な風土が生んだ、性的な暗いしきたり=因習、間引き、夜這い、人柱、口減らし、穢多・非人に対して百姓達の差別などを喚起される様な暗いイメージを投げかけてきます。
百姓は殺さぬように生かさぬようにと言う権力者の言葉がありますが、身分制度の中飢餓などと隣り合わせでギリギリのとろこで生きていて人間が、人間の生理である性欲を処理するためには性交渉者との性交だけではなくもっと暴力的な物が生まれくると思います。
人間が野蛮人と呼ばれていた頃は男は女に対して肉体的な征服者として性交をしてきましたが、道徳・倫理・宗教といった文化を持つことによって言語をもって説得して、成功するば性交をするようになりました(口説いたり、結婚したり)。
では、文明人でも道徳・倫理・宗教などから零れ落ちた性衝動的な欲望や暴力はどうなるのでしょうか?
戦前の日本陸軍は鉄の規律で兵隊を訓練していました。しかし、中国戦線での中国軍との度重なる激戦、戦友を失った兵士が復讐の為中国兵を見たら殺せが、中国人を殺せに変わり。物資の不足が徴発(”要するに泥棒、最初は金や軍票を渡しいた”と生き残りの兵士が言っていた)と言った抑制を失った兵隊たちによる略奪。暴力とセックスは相性が良いので、やがてそれがエスカレートして中国人婦女子に対しての性的暴行が時と状況によればそれが暴発する事をを証明していると思います。私は日本人は従順で良い国民だと思います。ですが、そう言う私達でも従順であるけれど、凶暴で残虐になれるのです。

「暴力は楽しい、性的な暴力はもっと楽しい。」こんなことを声高にさけんで、欲望を無制限に開放したら、これぞ悪徳の栄えです。治安は崩壊し、国家体制そのものを崩壊させてしまう。だから体制を維持する人達には絶対のタブーです。権力者はそれは制御しないといけないのです。
男女の関係の間に高い垣根をもうけて男性の欲求不満解消に江戸時代の遊郭や明治以後の赤線がありました。これは紛れもなく性の欲望を制御する社会的な装置です。批判されるかもしれませんが善悪の話は別にして有効に機能したと思います。現在の風俗産業も同じようなものです。

写真集は、日常紙一重に隠れた欲望や暴力の姿を見せていると思います。なぜならば私達は日本人で、子どもの頃から言葉や場合によっては暴力(苦痛)によって社会に適合できるように”しつけ”られています。成長するあいだにそれが哲学や宗教であったり、倫理であったり、場合によっては芸術なんかに変わった行くと思います。それは個々の環境であったり受ける教育により変わると思います。しかし、その身にまとった宗教や倫理がなにかの拍子で脱ぎ捨てられて、せきだらな個になったとき、または脱ぎ捨てる振りをするとき象徴的に全裸の女性を縛り上げてします側になるのです。
一言付け加えるとカメラのレンズを通して見入っているわれわれもその風景のなかに存在するのです。女性の人格とか知性だとか理性だとか無視して、自分が壊したものに見入る、壊れた自分がいる。それは時代が変わろうが、社会体制が変わろうが、日本人が生きている限り存在する普遍的な物のような気がします。それをエロス(性・生の本能)と呼んでもよいと思います。

また写真集には死体を連想させるカットが数カットあります。森山先生もエロスがあればタナトス(死の本能)も対極にあると言っていると思います。タナトスは暴力とも隣り合わせの親類です。
このエロスとタナトスについてはフロイトの有名な話があります、鮭の産卵の話に例えて「鮭は急流を登る→生まれたところに帰るために→産卵のために(エロスを獲得する)→死のために」。人間の本能の最終目的地は”死”であると言うことなんです。「人間や動物は、その目的−特別な死を死ぬこと−特別な死に当てはまらない脅威から自分を守ろうとする(攻撃性)。そしてそれが(攻撃性)自己に向けられたとき自己破壊を生む。」この死の本能についてはフロイトが提唱しただけで生物学的に実証されていない話らしいのですが、死の本能が人間を生存させているとフロイトは言っています。ならば、良き死を迎えるために良きエロスを獲得する。良い死を獲得するために良い人生を生きるこんな事なのでしょうかね。

SMは隠れたブームらしいのですが(私的には壊れかけている人間が増えているのかなと思います)アダルトコーナーで販売されているスケベ心満足させる緊縛写真集と呼ばれるものから比べると、撮影されているものが凡庸だと思う人もいるかもしれません(最近のは派手ですからね)。しかし、森山大道の写真の凄みは出版から40年近くたちましたが色あせていません。「蜻蛉(かげろう)」は単なる緊縛写真集というものではなく、緊縛写真をもって私達日本人の心の暗黒面(暴力や性)に目を向けた実験的な表現であると思います。

(ただこの後に続く人として荒木さんがいると思います。荒木先生は荒木先生なりの表現の世界で優れた仕事をされていると思いますが、直接この「蜉蝣」の遺伝子を受け継いだ写真集になかなかお目にかかれないですね)

日本の閉鎖的な風土のなかで野蛮人のような暴力によるエロスの獲得が許容され、それが因習となり社会のなかに隠れ、やがてそれから緊縛が生れ、性愛(セックス)にまで形を変えたこと(場合のよっては緊縛美というものもあると思います)。緊縛が人間のいろいろな創意工夫で美術的な方向をむき出したり、またそれを商業活動になったりしてますが、純粋に暴力や性や死の生々しい姿を緊縛写真として見せようとしたのが「蜻蛉」なのではないでしょうか。

おまけ

「人間は神にはなれない。」
(禁断の惑星より)

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追記:写真集「かげろう」に収録されている伝説的なイラストレーター辰巳四郎のファイルを手に入れたので掲載します。