浮遊(1915)

浮遊
第一次世界大戦が始まると、シーレはピスコ画廊での<CR競作展>に参加したり、ドイツ語圏外の都市(ローマ、ブリュセル、パリ等)で展覧会を開いたりしてその名を広めてゆく。この時期浮世絵の影響を受け、版画技法を修得したエッチングを製作したり、ポスターなどのグラフィック・アートへも関心を見せ始める。そして、エディトの出現。
ウィーンのアトリエのそばにジュアン・ハームスという錠前屋の親方の家があり、そこにエディトとアデーレという美しい姉妹がいた。シーレはヴァリーとエディトの間で板ばさみになり、エディトに求愛す一方でヴァリーをごまかし続ける。厳しい家庭のハームス姉妹を映画に連れ出すためにヴァリーをあざむいて付き添い役までやらせている。シーレはまったく異なった性格を持つ二人のいることを、自己と自己とが対話していることをそうした行動によって再び気づく。情緒不安定な私生活が敏感に反映しシーレはまたダブル・セルフ・ポートレートを描き始める。「二重身自画像」であり「浮遊」である。それは1910年から1911年にかけて自己凝視シリーズとしてひとつの完成を見た作品を踏襲しながら、よりアナーキーな、より不安をこめた、十九世紀ロマン主義以降の近代的主題である”二重身(ドッペルゲンガー)”となった。

シーレはボヘミアンの生活を代表するヴァリーとプチブルのハームス家で経済的な基盤のしっかりした生活を続けるエディトの間をさまよっていた。不安が線となる。「浮遊」は、「私がこの目で見続けてきたこと、心のなかで苦しんできたことを私を浄化する。そして私はとびあがろうとしている」というシーレの言葉からも判断できるように、ヴァリーとの完了を、別離を暗示する。そしてシーレはこの最後の二重身自画像を契機に新しい世界に入ってゆく。今まで体験しなかった「社会」のなかへ作動してゆくのである。つまり結婚し、軍隊へ入る。

*シーレはエディトと結婚したいが、ヴァリーも失いたくないという憎みきれないろくでなし状態だった。エディトは嫉妬深かったようでシーレにはっきりヴァリーと分かれるように詰め寄った。そこでシーレのだした結論はヴァリーに対して「エディットと結婚しても、毎夏数週間のバカンスをともに過ごす」というものだった。もともとクリムトのモデルで他のモデル達と共同生活をしていたヴァリーはこのような奇妙な「三人暮らし」が成立するわけがないと悟り。シーレと別れ、赤十字の一員として戦地に赴くことを志願し、1917年ダルマチア地方(ユーゴスラビア)でシーレと二度と会うことなく猩紅熱でこの世をさった。

死と少女(1915/1916)

死と少女
ヴァリーとの関係に決着をつけることができず長く悩んだ末、1915年シーレはエディトと結婚する。そして結婚の数日後には召集され、プラハの兵舎に入隊することになる。五月始めウィーゼルブルグ近郊ミューリングの将校収容キャンプに移り、調達事務所で働くかたわら、アトリエを与えられ、朝七時にでて、夕方五時に帰るという規則正しいスケジュールのなかでたくさんの時間を描くことに費やすことができ、10以上の大作がこの年に製作された。
「死と少女」は他者をまじえたその時代の代表的な自画像である。
体をS字型にして女を抱きとめる男は死の象徴と化したシーレ自身であり、身を委ねる女はエロスの化身であり、ヴァリーであることはその赤い髪と長い鼻と突き出た頬から明らかだ。冷たい線で空間に割り込み、褐色系の色面で全体を統一し、ほとんど原色に近い赤と緑を斑点のように発色さsて見る者に刺すような感覚を味あわせるこの作品は”死の舞踏”というドイツ北方絵画の伝統的な主題を男女の愛憎の状況へすべりこませてシーレ独特の解釈と情景を蘇生させる。
シーレやココシュカらウィーンの画家たちは同時代のドイツの画家たちよりもっと根深くドイツ的な観念に縛られているように見える。たとえばキルヒナーやロットルフのような画家たちが肖像画を現実的に、仮定的に、そして心理的に描き、ほとんど寓話性を帯びさせてなのに対して、シーレやココシュカは好んで寓話的題材を中心とする作品を数多く製作した。ウィーン表現主義のひとつの特質は性的色調をもつこの寓話性にあるといえるかもしれない。
「死と少女」は、ココシュカの「風と花嫁」から影響を受けたものである。シーレも出品していた1914年のニュンヘンの分離派展にだされたもので、ココシュカは「花嫁」と「嵐」という状況を混じり合わせ、二人の男女が嵐のような愛の波によって大きく揺さぶられ横たわる情景を描き、今ある愛への訣別を絵に告げた。シーレも同様に、「死と少女」でヴァリーとの完全な別離を表明する。シーレは僧侶のスタイルをとり、ヴァリーと冷めた抱擁をかわす。シーレは様々にとりざたされたココシュカ「風と花嫁」の存在を知って、自分の私的なジレンマをアレゴリーとして絵画化する勇気をえた。シーレのアレゴリーもココシュカのアレゴリーも、性を曖昧にして区別する「サロメ」や「吸血鬼」といったアレゴリーではなく、まさに二十世紀的な性と死に浸透された深いアレゴリーとなっていることに注意したい。

ココシュカ 風の花嫁(1914)

抱擁(恋人同士II 1917)

抱擁(恋人たちII)
1917年に描かれた「抱擁(恋人たちII)」は「死と少女」と対をなす作品と考えられている。純白のシーツで浮かびあげらせる黄白色のベットと褐色の岩石、躍動する肉体と生命力をうしなった蒼白な肉体、右傾線構図と左傾線構図、裸体と着衣、男女の位置・・・・・すべてが対照的である。
シーレのここでの抱擁は情熱的で力強く、体軀も今まで見られなかった筋肉質の男らしさを発散させている。先に述べたシーレが自らに課した役割である”愛する者としての男”のイメージを、シーレはここで「死と少女」を描いた時の自分と対決させようとして完成させた。エディトはシーレの口元に自分の耳をおしあてて、シーレの背中でVゼスチュア(シーレのポートレートに頻出する指の暗号、ここでは結婚Verheiratetであり模範Vorbildであろう)を組む。もみくちゃになった白いシーツの上に横たわり、体を癒着したようにひとつになり愛の形を体現してゆく。精神的な肉体的な結合である。「恋人たち」でシーレは自らを愛の使途として描こうとした。血と肉の存在であり、生まれた時からすでに汚れ、性的なジレンマや欲望にもがいている自分だが、今は愛の洗礼を受けているのだということをシーレはダイナミックに示そうとした。

家族
ダヴィンチの「聖アンナ」に範をとった、シーレの最後を飾るにふさわしい大作「家族」にはそれまでの作品にはなかった透明感がある。シーレとエディトと息子の三人の位置するベッドがどんなに黒い色調におおわれ、その背後につらなる闇がどんなにあてどないものであったとしても、その画面は、ある一瞬から、なぜかとてもきれいに澄んでゆく。
1913年の「聖家族」で羊膜のなかに閉じ込められていた胎児は、ここで確かな形をもったシーレの悲壮な意志をひきつぐ子供としてあらわされ、母の顔はヴァリーからエディト(この時彼女はシーレの子を身ごもっていた)へ変わる。「聖家族」に見られたどぎつい反社会的な要素は消え失せ、ただすたすら純粋な祈りに似た感情がそこにはめられる。
母の両足は大きなV字となって、母は子を楕円のフォームで保護する。子は澄み切ったまなざしで生き生きと動き、母は内省的なやさしさをたたえて子と父へとつながる。
「しゃがみこむ自画像」と同じポーズをとるシーレはやぶにらみで、なにか瞑想するような響きが視線にこめられている。その黄色いごわごわした体には、母のバラ色と白、子のピンクと灰白色の肉体に比べ、感傷的な弧絶感が漂っているように見える。子、母、そしてその後ろに死のカビに侵された父がいて、シーレの循環論的なテーマが繰り返される。1917年に描き始めて未完におわったこの「家族」は、自己確立のための、自らの実在を検証するための、重く、激しい、そして一時かろやかな生の課程の結晶であり、シーレの集大成といえるのだろう。ここにはシーレの責任ある夫としての自分の役割が確実に形象化されている。永劫に累進する「家族」の複雑な構成法は、この静的な三人像の枢軸を微妙にふるわせ、感傷的な「家族」や「愛」を否定する。三人の目にはそれぞれ三者三様の「なぜ?」が見て取れる。シーレは震える手でこの絵を完成させようとした。希望がすべて幻想にすぎず、すべてが喪失してしまうことを知らずに。「家族」はスペイン風邪で、エディトもまだ見ぬ息子も、そして自らも失ってしまうシーレの晩年の生への透明な予言となる。

Shielenとはドイツ語で斜視のことであり、二つの異なった視線を持つことである。シーレはこのことを確認するかのように自分の目を斜乱視にした何枚もの自画像を描いた。シーレは自分を中心を喪失した二十世紀人の象徴に見立てた。二十世紀、中心を持たぬ個は「全体」の幻想から遠く離れ、虚偽的な文化のなかに拉致され、なしくずしに構造に組み込まれてゆく。混沌と不安が目の前をおおう。シーレはそこを二つの視点から抜けようとした。それは多義的であり、楕円環をもち、視線は常に自己につき刺さった。主体と客体のまなざしの交差する場であり、見るものが見られ、見られるものが見るもである自画像といる一見あたり前でもっとも不思議なジャンルのなかで、そのことの困難さは最も鮮烈に展開された。シーレは老朽化したひとつの文化の終局段階で、くずれ落ちる寸前に力強くしなる大木のような最後の様式創造へ全霊をこめた。十九世紀の様式からエッセンスをすくいあげ、二十世紀に様式を取り戻そうとした。晩年になって矢つぎばやに、ほとんど同時代の美術の潮流から隔絶して創作された一連の濃厚な作品郡はその最良の成果である。
シーレはオプティミズムからも、ペシミズムからも遠い、シーレの絵は苛烈さがあり、狂躁があり、錯乱があり、激情がある。空虚さは、すべてのシーレの絵画の基調であり、その空虚さは赤裸々な緊張で貫かれる。金属をなめた時のような違和感がシーレの絵にはいつもついてまわる。時代の疾患が最も深い感染を受け、汚れ、傷つきながら、絵を描けことによってのりこていこうとした。シーレは根源的な現実の生への嗜欲を取り戻したかった。自らの喪失感が強ければ強いほど保持し続けなければならないとシーレは思った。黙っていると麻痺してしまいそうだった。時代の澱に包まれた秘部をあばき、梗塞された精神の組織の根を切り裂き、ただただ自己省察を深めてゆくことでシーレは淀む血液の流れに新しい生気を取り戻そうとした。
「甘く豊潤な日々の永遠の夢・・・・。休みなく恐ろしい苦しみが魂につまっている。それは強く光り、燃え上がり、次第に広がり戦火へと向かう、心の痙攣発作である。毒され、そしてあふれる肉欲に狂ったように燃え上がり、無力であることがぼくをさいなみ、無感覚にする。創造するするものの舌で話し、そして与えよ。悪魔よ、力を破裂させよ。お前の言葉は、お前の象徴は、そしてお前の未来は・・・」(エゴン・シーレ)
三百枚のタブロー、数千にのぼる水彩、素描、グワッシュ、エッチング、そして日記、手紙、論文、死、性、生、愛、神、・・・様々な事象が純粋な流離変転によってきらめく闇の花火のごとき様相がある。崩壊の諸現象のなかでシーレは、敗北したのでもなく、挫折したのでもなく、絶望したのでも、不毛にむかったのでもない。ただただ渇望し続け、そして渇望に終わった。
「確かに、たびたびぼくの絵や言葉がブルジュアの人々に奇妙で衝撃的な恐怖として受け取られたという事実は否定できない。しかしぼくのそのような表面的な志向は、ぼくの内面を燃え上がる要求とはまったくかけはなれたものだ。ぼくは確かに恐ろしい絵画を描いてきた。けれどもぼくはブルジュアを驚愕せしめるためにそれを好んで描いたのでは決してない。渇望は幻想をもっている。ぼくはただその幻想を描いたのだ。ぼくはぼくの好みのために描いたのではない。それはぼくにとって義務だったのだ。」(エゴン・シーレ)
自らを表現しつくすためにシーレは無数の煉獄を遍歴した。彼の晩年の大作はその経験の意味の総集である。そこにはすべてを喪失したものとして生を受けた線の画家の<喪失→回復→悟性>という図式が美しく成立する。悟性、すべては生きながら死ぬ、世界は生と死の、生成と死の、生成と衰減の重層した円環のなかにあり、深い憂愁がその上に漂う、始まりの終わり。その円環のなかでシーレは、あの「家族」の男の目をして見ている者に問いかける、なぜなのか、と。
シーレの鮮烈さは、混沌のただなかにあって人間的なるもののもち続けた精神が誇りうる品位と、認識されたはなくうつろう肉体性だけが表現可能な悲哀に到達している。シーレの激しさは、時代の芸術が頽廃に、病いに、華美に、人工に流れてゆくのをたちきろうとした。必然性がフォルムをくるり、破壊し、感情が突出させ、速度になってキャンバスをおおった。
「ぼくはただ描くことには満足できない。夏の風景のなかの秋の木には刺すような厳しさがあり、その精神と存在を感じとれる。そう、ぼくが描きたいと思ったのはこの郷愁なのだ」(エゴン・シーレ)
シーレを筆頭に、ココシュカやゲルストルらウィーン表現主義の画家たちは、神経質で華やかな病んだとしウィーンの最後の”夢見る少年たち”だった。彼らは最も激しい自己を夢見、独特のスタイルでタブローへ新しい時代の童話として荒々しく自己告白をした。肉体から形成されたグロテスクな、叫喚する具象を通して、苦闘の果てにゆきあたった不調和は、哲学からはみでたイデオロギーと文学をこえパトスを生んだ。彼らは犬のように吼え、犬のように唸った。しかし、その表面的な猥雑さにとらわれていては、一番大切な彼らの志向を忘れられてしまう。彼らが描きたかったのはシーレの言うように、喪失してしまった生と性への郷愁だ。そのために少年たちは自らの小世界をいききってつくりだした。
シーレは欠落したものへの激しい渇望に憑かれ、想像力に満ちた濃密な間ティエールで、絵画の概念を根底から揺るがすような変革をおこなった。シーレはそこに自ら帰納しうる世界をつくろうとした。細部にわたって具体性をもち、かつ全体としての機能をそなえ、自らの精神の指向性の根源なす世界を強い刺すような懐かしさをこめて描きだそうとした。世紀末的な事象をひとつひとつ、一作一作ごとに、己の肉体のみで突き崩していったその表現世界は、そして、もうひとつの世紀末を迎えてしまた我々が再び直面しなければならなくなった我々の自画像でもある。
「ぼくは自画像を描くために様々な方法をもっている。それは記憶するために、探求するために、創造するために、発見するためにあるのだ。その方法は内部に自らを燃えたたせ、燃え尽きさせ、永遠の光源から発せられた思考のように輝く強力な力をすでにもっていて、ほんのわずかな要素から成り立つぼくの小さな世界の最も暗い永遠となる。」(エゴン・シーレ)

自慰する自画像
1911年シーレ油彩の自画像を作成していない、かわりに彼は性と私生活に関わった自らの内面を突出させるような、インクと水彩や鉛筆やグワッシュによる多くの自画像を描き始めている。シーレの感情がこの頃めまぐるしいほどに変化していて、それを捉えるためにそうした敏捷な技法のほうが有効だった。「自慰する自画像」もそのひとつで、シーレはここではマスターベーションを忌むべき禁じられた行為であるとする当時の厳格な社会通念に抵抗し、自慰は肉体の自然な行動であると表明しようとした。同時期に描かれたオナニー・コンプレックスの象徴ともいうべき「腹をつきだした自画像」では、シーレは鏡のなかで苦しめられ、圧迫してくる息苦しい性のイメージと対立した末、ついにはゴッフが耳をそぎおとした自画像を描いたように両腕を切断した像を提示してある罪悪感をあらわしているし、メランコリックな「抒情詩」においては過度の自慰行為によりすりへった青白い表情の自分に対して性的ないらだちと不毛さを表現しようとしているが、この「自慰する自画像」にはそのような意識は感じられない。シーレは、ここで、ひとつのの旧い自己をのりこえようと、マスターベーションは正当な性の志向であるという考えを、肉体的命令の激しさと罪の意識とをのこしながら、科学的な描写によって強調している。

家族(1918)

*1918年2月6日グスタフ・クリムトがこの世を去りました。生涯にわたりシーレはクリムトのことを模範として崇拝していました。きしくも同じ年エディットがスペイン風邪に倒れ10月28日に息を引き取り(この時、エディットはクリムトの子供を妊娠していました)、さらに3日後の10月31日シーレもエディトの後を追うようにスペイン風邪で永久の眠りにつきました。

エディト・シーレ(1915/1916)

裸の自画像(1910)

二重の自画像(1915)

さらにこの時期、シーレは「自己凝視者」、「予言者」といったタイトルをつけたダブル・セルフ・ポートレートを描き始める。鏡の前での実在と仮象との闘いは、自分の生や性や死についてのイメージを増殖させ、シーレは他の自己の存在を鏡のなかで直感的にまさぐり、その後の彼の重要な核心となるこのモチーフを展開させている。シーレはタブローを借りて自己の潜在意識を発射させ続ける。

予言者(二重の自画像)(1911)

ほおずきのある自画像1912)

隠者たち(1912)シーレとクリムト

しかし1912年4月13日、あの忌まわしい事件、そして投獄、ノイレンバッハで未成年の少女を誘惑したとの罪状で逮捕され三日間の拘留、そのうえ「猥雑な裸体画を宣伝した」との理由でザンクト・ペルテンの留置場に24日間投獄され5月8日釈放された。
この監獄でシーレは鉛筆と水彩による十数点の痛々しい自画像を描いている。あの荒々しい身体性そのもののような肉体は失われ、毛布にくるまった憐れな弱々しい生き物がそこにはいる。単純な色彩と線のなかに測りしれない震えを描き出す。苦しみで抵抗する気力さえ失せ、ただ棒のように横たわり、コートに巻かれ、あてどなくこちらをみつめている。シーレの絵で感情心理をあらわす時、重要な役割を果たしてきた”手”はコートに隠されて見えず、拘禁、局限、抑制のシーレをシンボライズする。この投獄期間中にシーレは一日も欠かさず克明な日記をつけ、絵を描いた。そこでは絵を描くこと、彼の芸術に対する考えを書くことが唯一の支えだった。
「昨日、わめく、弱々しく、あわれに、嘆き、悲しむ、叫ぶ、低く、しきりに、哀願して。すすり泣く、暗く、恐ろしいほどに、とうとうなにも感じなくなり、冷たい四肢を伸ばす。死んだように心を硬直させ、身震いしながら湯につかった」(シーレの監獄日記より)


シーレはこの事件で深刻な痛手を受け、後の大きな変化と意味をもたらすことになる。

囚人
1911年の終りにはシーレの「自己凝視」の連作は一時うちきり、シーレは個人的な問題を内にこもらせず外部へ作動させていくことで解決を見出そうと、モデルであり愛人にもなっていたヴァリー・ノイツールのヌードを描き、母の故郷のクルマウにアトリエを設けていくつかの風景画を描きだしていた。自画像を描く時も、そこには今まで見られなかったリリシズムが見られシーレのヴィジョンはつかの間のあたたかい人間性をとりもどす。そして、ブタペストでシーレを中心とす<新芸術家集団展>を開催、ミュンヘンのコルツ画廊で<青騎士>グループとの合同展、ハーグのフォルクワング美術館で展覧会と着々とその成果を結実させていった。

自慰する自画像(1911)

腹をつきたした自画像(1911)

Return

自画像(1910)

左足を高く上げて座る女(1917)

囚人(1912)

小さな世界の最も暗い永遠  エゴン・シーレ
---写真都市(伊藤俊治)より

神秘的で人気のない山々や鏡面のようにつめたい街や嵐に耐える木々を描いた濃厚風景画から、暗い色調におおいつくされた、象徴的なテーマをもち、多様な解釈を許す重厚化された寓意絵画まで、エゴン・シーレはその短い生涯(1890-1918)に3百枚ほどのタブローと数千にのぼる水彩、素描、グワッシュのたぐいを描き残したが、その大部分は肖像画であり、シーレがかたくなに固執し、主張し続けたモチーフはただ内面と外面からせめぎあっている人体でしかなたった。
特に自画像は膨大な数にのぼり、シーレほど自画像にこだわり、危機的な自己確認をおこない続けた画家をわたしはしらない。シーレは”自己視”をたえまなくくぐりぬけていった画家であり、自画像を描くことによって自らに課せられた困難を克服しようとした。シーレの自画像は、それゆえ、シーレの自身の私生活の流れと密着した関係をもち、その時々のシーレの状況をフィルム全体に吐露し、カタレプシー(硬直症)、錯視、幻視、分裂気質、情性障害、パラノイア、強迫欲動、離人症、疎隔感、痴呆といった二十世紀的なすべての精神疾患の鮮明な発信として揺れ動いく。
しかし今はそうした精神病理学的な様態を指摘するのではなく、その底に流れるシーレの語法の推移を見つめなくてはならない。地震計のように時代の深層に敏感に反応してゆく自画像のなかの、「自己」と「自己」の間のまなざしの無限の往還をおわなければならない。
シーレのセルフ・ポートレートは彼の生を圧する一定不変の強迫観念が変貌する社会環境のなかで外化されキャンパスに凝縮したものであり、その時その時の自分自身になんとか存在理由を与えてきた同一性を羅列したものであり、自らであることを超えようとする限界の自己主張であった。
エゴン・シーレは世紀末ウィーンを華々しく席巻したアールヌーボーの流行とともに育ち、その終焉期にあたかも天啓をうけたかのように精力的に製作を開始する。シーレの生きたウィーンはまさに没落寸前の勧都だった。シーレはその幻惑的なアール・ヌーボーから覚醒し、無慈悲で冷徹な臨床学的観察力で自己のなかに巣くいだした不合理な性への渇望や、混濁した社会の澱やまといつき離れない死の影や、黒い海獣のようにぬめるぼやけた生に形を与えようとする。シーレは自らの原理であった北方ドイツのゴシック的な線条主義と世紀末ウィーンの人工的なデザイン精神を融合させ鋭利なナイフのような線の魔術で一気に対象を、自己を、えぐりだした。見る者に絵画の極点を知覚せしめるほどに暴力的で、スキャンダラスで気迫にみちた強靭なフォルムをキャンバスに現出させた。その背後には、死と再生の走馬灯のような乱舞がある。性と生のめくるめくコラージュがある。それは、現在の我々にダイレクトに結びつくものであり、未だにその強振するテンションを失ってはいない。その黙示録的な強烈さ、不安と危機に根ざされたシンポリズム、時代を先取りする予言者のようなアレゴー、革命的ともいえる線の意志、すべてが我々が歩んできた二十世紀の再検証であり、今われわれが進みつつある未来の暗示となる。
(中略)
エゴン・シーレは1890年6月12日、ウィーンからすこし離れたドナウ湖畔の小さな町トウルンで生まれた。祖父も父親も鉄道員というオーストリアの典型的な中産階級に生まれたシーレは、北ドイツのプロテスタントである父方の祖先と、ボヘミアンの血を引く母親の祖先から、妥協を拒否し、自己をあばきだしてゆく気質を受け継ぐ。シーレは六番子であり、生き延びた唯一の男子である。父アドルフは結婚前に梅毒に罹患し、その治療を拒否したため、すぐにマリーに感染する。胎内にいた子供たちは死産したり、子供たちが脆い肉体や血液をもってうまれてきたのはそのせいである。そして父はシーレが14歳の時、44歳で狂死する。徐々に神経を冒してゆくその忌まわしい悪化状態はシーレに忘れ難い印象を残した。シーレの性的な、精神的な逸脱とオブジェクションはこの父の性の悲劇のなかに胚胎されたものだ。そしてその時からシーレにとって”セルフポートレートであること”が宿命となる。シーレの自画像の軌跡を、時代とともにたどってみたい。(一部割愛します)                                  

ヴァリー(1912)