映画のスティールではありません。森下愛子はとにかく綺麗な体をしていました。


サードは優しい少年だ、3時間に及ぶシャブセックスで意識朦朧とした新聞部を抱きかかえて逃げたんです。
すぐに捕まる事が判っていながらです。

ヤクザを殺害したサードは少年院に入ります。(少年院と言うのもみそです。殺人と売春では少年刑務所行きが妥当だと先輩がいっていました。
だけど殺した相手が札付きのやくざで新聞部の体から覚醒剤がでたことと、サード自身の品性で情状酌量されたんじゃないかと。

ここは警察も裁判所も知恵があるなと思いました。

少年院と少年刑務所の違いは?と聞くと社会復帰可能か不可かの違いといわれました。)

後を追うように楽に金を稼ぐ事を憶えてしまったⅡBも窃盗の常習犯としてやってきます。

ここで少年院のボスみたいな院生ともめたり、脱走事件や院生の自殺とか幾つかの話が入っていますが、少年院に行く前後の話では2つの逸話が印象に残っています。

一つは少年院の院長だったか裁判官だったか忘れましたが大人の男とサードの会話で男が「お前が殺した人間の家族の事を考えたことがあるのか。」と責められます、サードは黙ったまま苦虫を噛むような表情をしています

がこんなことが言いたかったのではないかと思いました。

「少女に覚醒剤を注射してヤク中にして、自分の情婦にしようとしたヤクザが少女の人生とか夢とか家族とかを考えているのか。」

しかし、外道と呼ばれる人達の仕事なのです(だからやくざは怖いのです)。そして、男の返答はこうでしょうね「全てお前らが始めたあの馬鹿な事が原因なんだ。」。


そんな事はサードには分かっていました。それなのに「馬鹿な事」を始めたのは寂れた町で生きて行かなくてはならない現実を受け入れたく無かったからです、活気ある町で生きたいという幼稚ではあるけれ現実を変えたいと言う夢を持っていたからです。夢を持つ故の飢餓感があったから好きな女の子が目の前で売春していても耐えていたんだと思います。

世間が吐き続けている言葉で批判してもサードとコミュニケーションする事はできません、既にこの時代から大人と子供はコミュニケーションする事が出来なくなっていると寺山修司が言っている気がします。


二つ目は新聞部と一緒に売春していたテニス部(志方亜希子)が格子で囲まれた少年院のサードの枕元に立ち、新聞部がサードを裏切り結婚する事(結局は自分が一番可愛い。任侠小説のように「あたいの為にサードは人一人ばらしちまったんだよ」にはなりません)と自分の結婚を告げに来る「天井桟敷」の芝居の様な唯一幻想的なシーンです。

新聞部の結婚に対しては少しオカシイと思いました。女性刑務所の服役者の約4割が覚醒剤の使用か所持で逮捕され服役しています。
スピードは精神的依存が強い薬物です。何かと言うと「また欲しい」と思ってしまうものなのです。

スピードを使われて3時間も激しいセックスを強いられれば、新聞部はまたあのスピードを使ったセックスが欲しくなります。だからクスリで女を縛る事ができてしまうのです(フィクションだけど余りにも哀れです)。

新聞部が錯乱するシーンが無くなっているのでオリジナルを見ていない人は何が起きた判らないと思いますが、上のスチールをみるとアパートの住人がでてきてます。新聞部が走って大騒ぎしたから出てきてるんです。だからかなり多量に使用されて悪い状態になっていると思います。
推測ですが回復施設に行かなければならないレベルだと思います。心身にダメージを受けているのに結婚は不自然です。

その話が無く、いきなり結婚の話をするのは、テニス部はサードに嘘をつきにきたのではないかと?思ったんです。

敢えて幻想的なシーンにしたのはサードが新聞部を好きな事を知っていたから、新聞部が壊れてしまったの見て(あるいはその時既に急性中毒で死んでいたのか、少年院では少年の更生のため親の死、友人の死と言った様な少年にショックを与える情報が伏せられる事があります)、サードが自分を責めないように嘘をついたんじょないか?

そう考えると既にこの世にいない新聞部があの世からテニス部の姿を借りて夢枕に立ち別れを告げに来たのかもしれません。

私のことは忘れてと。

新聞部は既に死んでいるのです。私はそのように想像しました。



ヤクザ役の峰岸徹は現実の世界でもアイドルの岡田有希子を弄び自殺に追いやっています。





1時間の約束なのに2時間たっても3時間たっても終わらないのでサード達がヤクザの部屋に乗り込みます。

褌ひとつでやくざが現れますがそれを押し退けて部屋にはいるとそこにはシャブ漬けにされ転がされてメロメロになった新聞部がいました。(やくざの褌姿は凶暴性をよく表していると思います)

覚醒剤を使うと人間の快感を感じる神経だけではなく生命維持活動を司る神経も暴走し働きを阻害したりします。それが原因で心臓や中枢神経にダメージを受け命に係わる事もあるのです(押尾学事件がそうです。欧米ではlove pill と呼ばれる覚醒剤(アンフェタミン)と組成のよく似たMDMA(メチレンジオキシメタンフェタミン)の過剰摂取によりホステスの田中香織さんが死亡した事件です)。


危険な事を知っているのに薬をしらない少女に注射したのです。このやくざは自分の欲のためにそれが出来る人間なのです(狂ってますよね、先輩は自分の父親は野獣だと言っていました。アウトロー界隈には自分の欲を制御できない人間がたくさんいます。)。


サードは覚醒剤を使われた事に気が付き、金返すからから女を返してくれと訴えますが、女を自分の物にできると思っていたヤクザは逆上します。そして取っ組み合いになりラジカセでサードはヤクザ殴り殺してしまいます。矛盾するかもしれませんが新聞部が好きだったから、だから必死に守ろうとしたのです。新聞部にされたことを悟って殺意を持って殺したのです。


ここのシーンなのですが、名画座で見たときは覚醒剤を注射された新聞部が錯乱して全裸で部屋を飛び出し悲鳴を上げながら廊下を走るシーンがありました。しかし、後年発売されたビデオテープやDVDでは無くなっているようです。サードがヤクザを殺害するシーンと「逃げるぞ」と促されてアパートを裸で出てゆくシーンの間に入っていました。

とにかく森下愛子の体が綺麗でエロで私は大興奮しました。自業自得と言ってしまえばそれまでですが「町を出たら女優になりたいの。」と無邪気に言っていた少女の無垢な夢や憧れが砕け散るようで、ヤクザに壊された美少女が哀れで悲しくて、女の業の浅はかさや全裸で廊下を走る滑稽さで私は初見でカタルシスを感じてしまいました。


私は全裸でヤクザのアパートから逃げ出すシーンが「サード」と言う映画を物語っていると思います。
大人たちに気を狂わされた少女が全裸で行く先も判らず逃げているのです。

このシーンが無いと映画に対しての印象が変ります。新聞部が覚醒剤を使われた事が分りにくくなるし、新聞部の気が狂った事が分からなくなります。

そして、何よりも少女に起こった悲劇がわからなくなります。

初見の時はなぜヤクザが殺されなければならないのか、なぜ新聞部が裸で外に飛び出したのか分かりませんでした。
先輩に教えてもらって理解することができました。ヤクザは殺されてもしょうがない事をしました。)


新聞部はヤクザや客の男達に殺されたんです。


危険で無謀な事をしていたから当然の報いだと言えなくもないですが、映画の中で新聞部やテニス部を買うのは一般のサラリーマン風の男やおやじ達です。

「何時か危ない思いするかもしれないから、止めた方が良いよ」とか「今日は楽しませて貰ったけど、君みたいな若い子をいつまでもこんな事続けないほうが良いよ。」とか要するに危険だから止めろと言う大人がいません。

結果、サード達の暴走は続き新聞部が肉欲を膨らませ自分の意思でヤクザを客として選択してドラッグセックスでぶち壊され結果死んでしまうのです。

世の中には危険な事は山ほどあります、糧を得ている仕事さえ危険な場合があります。なのにこの映画では大人が無知な子供あるいは無知だと自覚していない子供に「危険な事」を説明する場面はありません

(サードだけは「馬鹿な事」を自覚していまいしたが)。

これを見て感じたのは人間が人間を使い捨てにする世の中で無知な人間はどもまでも無知で、どこまでも利用される社会の力学みたいな物を感じたからです。利用する人間から見たら利用される人間はどうなろうと知ったことではありません。「あいつが馬鹿なだけだ」で全てを済ましてしまいます、つまらない入れ知恵はしてくれないのです。


例えばヤクザが注射器と覚醒剤を新聞部に見せてこう言ったとします。

「これやってセックスすると最高なんだ。」

「それ麻薬でしょう。」

「大丈夫だよ、一回位やっても中毒なんかにならないよ。」

ちょっとベタかもしれませんが、小娘一人騙して転がすくらい朝飯前の女の扱いに上手い、狡賢いヤクザに結局注射されてしまいます。

それは無知だったからです、暴力団員が危険な人間であることや女を釣るのに薬を使う事も知らないし、覚醒剤の知識が少しでもあれば危ない物と自覚して逃れられたかもしれません(映画になりませんけどね)。

逃げていれば死なずに済んだかもしれないし、生きていても一生の十字架を背負わず救われたかもしれません。しかし覚醒剤の味を憶え、女の業を膨らませ落ちるのが流れのような気がするからです。



サード」が公開された1978年は70年安保も終わり、成田闘争も開港と言う形で農民と学生達の敗北として終わりました。学生たちは時代に風穴が空いてしまったような挫折感や虚脱感を味わっていた時代だと思います、サードのように信じていたものに裏切られたような気持ちです。

サードが味わったであろう挫折感に若者たちが共感したと思います(もちろんケレンミなくさっぱり脱いだ森下愛子の裸も人気呼び「サード」は大当たりします)。


私達の世代は70年安保と成田闘争に遅れた世代と呼べる世代でした。先輩たちが夢中になって学生運動をやっていたのに自分たちが同じ年齢になると急にやる事が無くなってしまいシラケ世代とか無気力世代とかと呼ばれる世代です。あるいはやるべきことを喪失してしまった世代だとも言えると思います。その私がサードを見ると御世辞にも良い事とは言えない売春を始めましたが、その「馬鹿な事」でも現実に対してアクションを起こしました。60歳近くになりそれを自分たちよりましだったのかなと思うようになりました。


それから、自分の先輩たちが学生運動をしているのを見ていて漠然とですが大人は敵と考えていて、さらに大人とお金の関係が近似値で狡賢いもの嫌なものと言う感覚がありました

(先輩から右翼系の学生にも左翼系の学生にも自民党の代議士や右翼の大物が金を配り懐柔していた話や成田闘争で同様に反対派の農民が金で分断された事を聞いていたので)。

「サード」の中でお金(狡賢い嫌な物)のために体を売る少女(しかも飛び切りの美少女)がいる事が当時全く納得できませんでした。

しかし生きて行く上で金は必要で金は力である事を理解したら、金にしかリアルなものを見いだせない人がいてもおかしくないと考えるようになりました。

そう言う意味では当時の私よりも映画の中の少年少女たちは大人だったのかもしれません、お金は力です現実を変えられると考えたんです。


しかし、現実はそんなに簡単に行きません。お金を手に入れるためにサード達のように無謀な事(立ちんぼ)をすれば危険な事(映画ではヤクザ)がやってきます。新聞部が肉欲を求めて暴走した結果サード達の計画は破綻してしまいました。それは、政治的闘争を失った若者が次に求める物がお金(物質的な幸福)と肉欲(セックスやドラッグ)であることを寺山修司が見抜いていたんじゃないかと思ったんです。


それは1980年台の始めにノーパン喫茶とピンクサロンが生まれ、私はそれに通いそこで働く女の子数名が一流大学の女子学生で物質的に良い生活をしたいためにそこで働いている事を知り愕然とした事を覚えています。

私の感覚的な物ですが、そのくらいからなにか大きく変わった気がするのです。
お金は悪いものではない、セックスも自由にしていいんだ、てね。


しかし、一つの模範や規定が変わると暴走するのも人間です。

1988年のコンクリート詰め殺人事件(快楽殺人、実行者たちはトルエンと言うドラッグで完全に気が狂っていまいした、暴力とセックスに明け暮れ長期にわたり少女を監禁し惨殺した)。

80年代のバブル(金銭欲に狂い)や1997年の酒鬼薔薇事件(快楽殺人、暴力とセックスが融合して殺人への性的な快楽に狂った)。

2003年に発覚した「スーパーフリー事件」(セックスに狂た)。それらはそれを象徴していると思います。

「サード」のラストシーンのようにゴールを喪失してしまったが走り続ける先にはノーパン喫茶とピンクサロンと80年代のバブルの狂乱に援助交際と快楽殺人鬼達と一流大学の学生達による乱交パーティーが待っていたのです。

(注意しておきますが、学生運動が良かっただとか正しかっただとかは言っていません、この様な流れになってしまったと言う事です)



私の親やその上の世代は戦争があり。戦後復興と言うスローガンのもと必死に働き努力して来たと思ます、戦時中の国家総動員体制がそのまま続いていたのです。経済の発展による物質的な幸福や社会インフラが整備され医療や福祉が充実して受けられるようになり、日本は上手くいっているはずだ上手くいっていないはずは無いと思っていたと思います。しかし、衝撃的な事件があるごとに大々的に報道され議論を呼んできました。


なぜかと思うに、彼らが怖かったからではないか?


ここで言う怖さとは狂気の殺人者や強姦魔、詐欺師、泥棒、強盗に対しての恐れではなく自分たちがやって来た事が間違っていたかもしれないと言う恐怖です。

コンクリート詰め殺人の主犯の両親は筋金入りの共産党員で党務に没頭して、自分たちの子供だから大丈夫間違いは起こさないと思い込み、子育てを放棄したことにより怪物が産れた(関係者から見れば党務に熱心な夫婦)。子供が暴走を始めると見て見ぬ振りをして、最悪な事に少女が監禁されていたことも知っているのに警察に通報しませんでした。

酒鬼薔薇事件の犯人は厳しい母親の躾けや周りからのいじめにより常に心身に苦痛を味わっていました(教育熱心な母親で子供のいじめを認識していなかった)。

スーパーフリーのリーダーは土建屋の父を持ち稼業を継ぐためと暴力を受けながら躾けと土建屋の仕事を仕込まれました(星一徹タイプの激しい父親、服役後も会えば自分で手にかけると言っている)。、


バブルに踊った連中は私の見た範囲では一流大学を卒業して仕事もでき分別のある大人なはずの人間であり、親も同様な立派な社会人である事が想像できます。しかし、その彼らがモラルを無視して儲け第一で強引な取引をし、享楽的な生活を送っていました(大学出たての子供に必要経費だと言って10万円くれい平気で支給されていました)。(立派に仕事をこなす社会人)、一見だけでは問題の無い人達でした。

だから自分たちの全く理解不能な行動をする人間が何故いるのか、あいつら特別なんだ、だけど奴らの親は変質者でもなく犯罪者でもない普通の人間でした。もしかしたら自分たちの無意識が子供を壊して邪悪な精神を持った人間にしているのではないか?

私にはスーパーフリーの「ギャルは撃つための公共物」が全く理解できなかった。ポルノ映画のような物語だった。
しかし、スーパーフリーのリーダーが「セックスは好きだけど女は嫌い」という発言を聞いたときはっとしました、彼は壊てる?

セックスが好きならセフレを沢山作ります。機嫌も取らないといけないから女の子にサービスもすると思います。
要するに女の子を大事にすると思います。なのに凌辱に走ったのは女に対しての憎悪なのかな?

しかし、他人の心の闇は判りません。


1970代の終わりに象徴的に「サード」では少女が大人に壊れされる事が描かれています。

大人が無意識に子供や未来を壊しているのかもしれない?



「サード」は寺山修司が今の日本を予見して台本作りをしたと私は考えています。

大人達が無意識に子供たちや未来を壊してしまう世の中。
そして私思うんです。いつか子供達に復讐されるって。


映画の唯一の救いは主人公がいろんな事を知ったことです。コミュニケーションしたんです。サード達は売春と殺人と言った犯罪を犯し、少女が一人おもちゃにされて殺されて、挙句の果てに制裁され現実とコミュニケーションしたんだと思います。

躾けとして親や学校の先生は他人に暴力を振るってはいけない、嘘をついてはイケないと言って思い込ませますが、現実の世の中にでると暴力や嘘を仕事にしている人間がいます。本人が思い込んでいる間はコミュニケーションにはならないと思います。そうゆう事だと勝手に信じているだけだと思います。だから簡単に変わってしまうのです


実際に暴力を振るえば犯罪者として制裁を受けたり、人間関係を壊したり、社会的な信用を失ったりと良い事が何もない事を自覚したり教えて貰う事がコミュニケーションすることになるのではないでしゅか。

だから私個人としてサードの様に追い込まれる姿やぶち壊される新聞部を見せられて現実の生々しい姿を疑似体験(幾つかは追体験しましたが)させて貰ったと思います。

サードの夢、焦燥、孤独、悔恨、絶望、希望、再生。

新聞部の金への執着、エロス、愚かさ、女の業。

ヤクザの狡さ、嫌らしさ、欲望、セックス、暴力、ドラッグ。これらを沢山の事を見せて貰ったと思います。


それから今の10代や20代の若い人の感想を聞いてみたい気がします。最近は貧困と言う問題もあり理由は変わってきているかもしれませんが、90年代から始まった援助交際で顕在化した少女売春が今はJKビジネスと呼ばれるようになり体を売る少女は決しって途絶えないし、
一説によると東京都内では中高生で約10パーセントが何等かのドラックの経験があると答える時代で70年代の終わりに、

もがいていた少年少女の姿がどのに映るのか感想を聞いてみたい気がします。どんな感想を持つかは全く分かりませんが、私が一つ思いつく事はサードたちが感じた閉塞感は今の若者たちでも共感できるのではと。

(それから冥途の土産にもう一度森下愛子が全裸で廊下を走るシーンを見てみたいものですね。)


参考文献

光文社 「麻薬・脳・文明」 医学博士 大木孝介

集英社文庫 「ウェルター・サード」 軒上 泊

フィルムアート社 寺山修司全シナリオ<1> 

昔、人生最初の転職した会社でよく面倒を見てくれた先輩がいた。付き合っていく内に先輩の死んだ父親が暴力団員である事を知った。

当時の私は全くの世間知らずで不良や暴力団員は教育が無く無知な連中ばかりだと思っていたが暴力団員の息子が流暢に英語を話し、英語の読み書きの仕事をするのが意外に思えたからだ。

大学時代はどこのセクトか分からないが運動家で機動隊とやり合い、大学を卒業したあとはアメリカに留学して日本に帰ってから高校の英語の教師をしていたが、教師の仕事が会わずその会社に転職して来たのだといっていた。

そして、とにかく酒が好きでよく一緒に飲みに行きアメリカの生活や学生運動の話とかをしてくれた。

そんな話をしている時にATGの東陽一監督の「サード」(永島敏行主演)に出演した「森下愛子が可愛かったな」と言う話になった(脚本はあの寺山修司だ)。

私は映画公開時は見る事ができなかったが二十歳前後に名画座で見て、飛び切りの美少女だった森下愛子が惜しげもなく見せてくれる裸に興奮して股間のものを固くした。しかし映画全体に流れる挫折感や閉塞感にやりきれなくなった事を憶えていた。


*簡単にストーリーを説明すると地方の寂れた町の高校の野球部でサードを守っている少年、あだ名が「サード」と呼ばれる妹尾新二(永島敏行)が友達のⅡB(吉田次昭)と女友達である「新聞部」(森下愛子)と「テニス部」(志方亜紀子)たちと意気投合してみんなで寂れた町を出て活気ある町で生活しようと、そこに行けば人生の目的がみつかると資金稼ぎのために売春を始める。そして客の「やくざ」(峰岸徹)とトラブルになりやくざを殺してしまい少年院に行くと言う話だ。

付け加えると「サード」と言うあだ名は相手チームの選手がサードを回りホームに返ってゆく様を見つめるしかない「サード」の取り残され感や孤立感を象徴している。



「やくざが森下愛子を買って薄汚いアパートに引っ張り込むだろう、あれってすごく不自然なんだよ。」と先輩が言った。

「どうしてですか?」

「やくざは見栄っ張りだからちゃんとしたホテルに連れてくよ。だいたいあんな高級スーツ着たヤクザがあんなアパートに住んでるわけない」


「それに新聞部を見るやくざの顔見たかよ、あれは新聞部が欲しくて欲しくてたまらない下心丸見えの顔だよ、だからスピードがあるブツの倉庫兼ヤリ部屋のアパートに連れ込んだよ。」

「スピードて何ですか?」

「馬鹿、覚醒剤の事だよ。」

新聞部はヤクザに覚醒剤を注射されてドラッグセックスでぶち壊されて、オーバードーズで殺されます。



サード達が町を出ていく話し合いのなかで、手っ取り早くお金を稼ぐ方法として売春を新聞部とテニス部の方からサードに提案する。

サードが「大根売るみたいに言いやがった。」と映画の中で言っていたが少女達はお金以外にリアルなものを感じられないから自分の体を売ってもお金が欲しかったのだ、学生時代に同世代で売春をやっている子もいたが少女売春が顕在化した90年代の援助交際から現在のJKビジネスに至るまでの少女達の正直な気持ちだと思う。やり方が洗練されているか下手なのかの違いだけの気がする。

世間知らず故なのか高校生なのにサードとⅡBは客を選び、キチンと交渉して商売として成立させる。そして勤勉に売春と言う仕事をこなすうちに新聞部が少女からセックスのできる大人の女に成長する。

セックスの快楽とお金の有難みを知り、男を知り男の扱いかたを身に着けてゆく。

(こんな美少女二人が立ちんぼをやっていればスゴイ事になると思うのですがそこは映画の都合として)


新聞部は肉体を意識し、女になり始める。

そして女は経験を積むうちにセックスの快楽を求めるようになる。ヤクザ(峰岸徹)を見て新聞部が「あの人がいい。」と女の方から客を指名してしまう(売春を始めた時はTシャツにジーンズでしたがこの時には上等な服を着ています)。

サードが「ヤクザぽいぜ。」と躊躇するが「わたしがいいと言ったらいいの。」とサードを説き伏せてヤクザを客にする。(肉体労働者の人とのセックスて最高よと話していた元売春婦や、Sの人とのセックス楽しいとあっけらかんと言ったモデルがいたが、女は経験を積むと暴力的な男はセックスが良いと嗅ぎ分けるのですね)

そしてホテルにではなく薄汚いアパートに連れ込まれますが、新聞部の事が心配なサードはどこに連れて行かれるのか最後まで見とどけます。

「いつまで付いてくるだよ。」とヤクザ、「仕事ですから。」とサード。

峰岸徹と森下愛子のセックスシーンは直接的に語られてないけどドラックセックスを描いたんだと思います。しかもそれを美少女女優がやったとんでもないシーンなのです。

演出は恐らく新聞部がヤクザに覚醒剤を注射された設定になっています。セックスは暴力的要素を含むけど、
力を職業にしているやくざのセックスだからは暴力=セックスに見えてしまいます。

羅生門の多襄丸が真砂が欲しくなったようにヤクザは美少女である新聞部が欲しくなったのです、ヒモも若造だから舐めていたのでしょう、だからドラックセックスの虜にして覚醒剤で縛って自分の物にしようしたのです。

なぜこんな発想ができるのか、それは女性を消耗品にしか思っていないからです。もっとゲスないい方しましょうか女は歩く女性器にしか見えないからです。

売春宿には用心棒が居ます。もし客が女にそんなことをすれば命に関わります、このヤクザは相手が素人だと見透かして覚醒剤を少女に使ったのです。





しかし、その時見た森下愛子は真砂のような魔女で男を狂わせて破滅させるような妖艶な魅力を放っていました。ATGの映画はお高く留まった芸術作品と批判する人がいますが「サード」に限ってはそうでは無いと思います。生々しい欲望や女の業、精液や愛液に汗や血の臭いを感じます。監督の東陽一と撮影の川上晧一はドキュメント畑の人だったので虚構の中にリアルなナマモノの人間を見せてくれました。

多襄丸が真砂を見る目は少年のような純粋な目でしたが、ヤクザが新聞部を見る目は欲望にぎらついた目でした。襄丸が

モデルに走ってみてと言ったら全力疾走してくれました、私なりのサードに対してのオマージュです。

全裸でヤクザのアパートから逃げる少女、寺山修司からのメッセージです。

Return

思い出した。連れ込むときヤクザは本当に嬉しそうな顔をしていた、部屋に入るとミミズクかフクロウか分からないけど剥製が置いてあって獲物を狩る目で新聞部を見つめている。

そして、やくざが同じ目で新聞部を睨んでいたことを。(剥製なんか生活するのに不自然だ、先輩言うように倉庫だったんだ)

「それってどうゆう事なんですか?」無知な私は尋ねた。

「脚本の寺山修司、ヒロポン世代だからよく知ってたんじゃないかな。覚醒剤を使うと男は勃起しにくくなるけどヤクザは使い慣れてたんだろ、一旦立つと凄い快感を味わえるんだ。女も同様に快感を司る神経が興奮してセックスに燃える、おまけに長持ちするんだよ。勿論、体質に合わない奴もいるし個人差もあるみたいだけどね。」

「そうなんですか。」

「薬を使って女を自分に縛りつけるんだよ大藪春彦の小説なんかそんな話ばっかだよ、女とクスリと銃。薬を使って女を釣るのは外道の常套手段なんだ。そして釣り上げた後は一生搾り取るんだ。」

(映画・「蘇る銀狼」の中で主人公が女を釣るため覚醒剤をデート・ドラックに使いセックスします。松田優作と風吹ジュンの熱演でなかなかのシーンになっていました。)

先輩は続けた。

「サードたちがヤクザの部屋に乗り込んだ時に新聞部の目が焦点が定まってなかったろ、それに普通あんな声出さないよ。」

背中に鬼の入れ墨がある筋骨隆々としたヤクザとセックスしてよがり声を上げる新聞部、確かに尋常じゃない声だった。

「それからサードがヤクザに掴みかかるところも不自然だったろ、森下愛子の白いオッパイから汗がしたたり落ちてサードがヤクザに飛びかかる所。

覚醒剤やると新陳代謝が激しくなって多汗になるんだ。だから俺思うんだけどサードてヤクザの子供で覚醒剤やるとどうなるか知ってたんじゃないのかな。」

断っておくが先輩は父親の姿を見て育ち、やくざを心底嫌う完全な堅気だ。

最後はお前も絶対あんなもんやるなよで話が終わったが、その後レンタルビデオ屋で借りて見直してみた「三面記事の数行の記事の裏側で起きている現実」と先輩が言ったことが正鵠を得ていると思った。


その職場には6年間勤めた後に念願の写真学校に通った。当時戦場カメラマンの沢田教一や一ノ瀬泰三に憧れていた私は翌年の夏休みにベトナム戦争の残像が残っている東南アジアに撮影旅行に出かけて、若気の至りで植物系だけどドラッグ(アッパーではなくダウナー)とドラックセックスの経験をして、女がヤクザとセックスしている時の新聞部の様になるのを見て「サード」のリアリティを認識した。