二枚目の「ヌーディスト・キャンプの森の中の夫と妻、ニュージャージー、1963年」も、30代らしき一組の夫婦が森木立ちのなかで茫然と立ち尽くしている不思議な裸体写真だ。夫の目も、妻の目も、アーバスのカメラを見つめていない。その視線のゆくえは、うつろに、どん詰まりのヌーディスト村の空気のなかを重く淀んでいる。男のてには何か薬品のカプセルのようなものが握られ、女のどこかいびつなアンバランスな肉体にはネックレスが巻かれ、爪にはマニュキアがほどこされ、歯はむきだしに、夫の手をおぼろにつかんで、硬直している。背景にはタオルやシャツを干した宿舎やテニスコートや売店が点々と連なっているのが見え、地面はどんよりとしめっている。
そしてもう一枚は、ブロンドのかつらをかぶり、白鳥をかたどった流行のサングラスをかけ、しゃれたブレスウォチをし、刺繍の入ったハデなタオルをたらし、高いハイヒールをはいて笑いかける中年の婦人を撮った「スワン・サングラスのヌーディスト・レディ、ペンシルベニア、1965年」だ。その下腹部の丸みに、腕の曲線、首筋の張りに、乳房の揺れに、陰部のふくらみに時代の澱のなかで熟れ、爛れた精神の変貌の段階や欲望の屈折の様態が確かに表れている。
どれも見ていると社会的な関心と生物学的な興味と性的な興奮といった種々の要素がごっちゃ混ぜになって同時に湧き上がってくるような不思議な感情をを起こさせ、ある特別な空間のなかにいる人々の特殊な精神のありようが鮮やかに写されたいる。アーバスはそこに自分の精神環境をもみたのであり、それを自分のルールで写し撮ろうとした。その”自然の村”に文明の究極を見た。文明の果ての人々のあえぎを見たのである。こうしたパラドキシカルなまなざしこそ、アーバス特有の意識の磁場であり、そこにおいて初めて彼女が見ようとしたこと、見たいと願ったことが鮮明に浮かび上がってくる。アーバスは意図的にそれを見つめている。「裸体」とは文明が人間に与えた彫刻であるとするならば、アーバスはおそらく、すぐに時というものに隠されてしまうその「裸体」を意識的に観察し、記録しようとした最初の写真家である。文明社会という容器のねじれを見事な強度で写し出し、その奥に根源的なものの多様な変化を描きこもうとした。歴史についての写真のあり方を彼女は明確に確認していた。アーバス以後写真の裸体は何か別のものを背負ってしまった。裸体写真の負荷が、この時期から、つまり文明の果てがうっすらと確認できるほどに見えてきた時点から、ゆっくりと、しかしダイナミックに転換していった。血の温かさと優しさをもった生の魔力が文明という容れもののなかである時期から急激に複雑にたわんで軋んでゆく‐-−アーバスの裸体写真は、その始まりを告げるひとつの深く静かな陳述である。
「しばらくたつと考えてしまいます。なぜなら、足もとには空瓶やら空缶やらが散らばり、湖底にはひどく汚い泥が淀み、野外トイレは臭く、木々はむさくるしい。まるでエデンの園の昔、リンゴを食べて、アダムとイブが神に許しを乞い、神はあまりの激昂のあまり、よろしい、それではとどまれ、文明を得よ、子をもうけよ、汚れてしまえ、といい、そうして彼らはそうしたかのごとく思われるのです。」
「文明の終着点にはいかがわしさと強欲と憎悪がのこった。そして迷走と衰退、やがて訪れる穏やかな死。」
ダイアン・アーバス(1)
(伊藤俊治 写真都市・透明な裸体、ヌードランドスケープ)
ダイアン・アーバスがはじめてヌーディスト・キャンプを訪れたのは、彼女が本格的に純粋写真を撮り始めて間もない1963年のことだ。アメリカのヌーディズム運動の歴史は1963年にドイツ系移民クルト・バーゼンが設立したASA(アメリカ日光浴協会、前身は1929年にクルトが旗揚げしたアメリカ肉体文化連合AFPCである)を始まりとするのだが、戦前はさまざまな迫害や偏見によってその活動は小規模に行われていたに過ぎない。合法的に集会やキャンプ場が認められるようになったのは、ようやく50年代も末になってからのことだった。アーバスはいわば”太陽の下で人間の本来の姿にもどる裸の休暇運動”とみなされ、知識階級を中心に広範にひろまってゆくアメリカのヌーディズム運動の胎動期にいち早くその動きを嗅ぎつけて、強い興味を示し、奇妙なな魅力を覚えながら、それ以後、何度もヌーディストキャンプを訪れることになる。
「そこには素晴らしい題材でした。本当に胸がワクワクしました。他に理由があったのでしょうが、大変みすぼらしいキャンプ場だったので、そのため、私はなおさら素晴らしかったのです。そこはまさに崩壊寸前、カビ臭くて草一本生えていませんでした。」
20世紀前半のヨーロッパに健康運動としてのヌーディズムが大流行したのは、ドイツを中心にした北方地域においてであった。ドイツ、ベルギー、オランダ、スウェーデンなど太陽のあたる時間の少ない狭い国土の人々の日光浴願望として自然発生的に始まり、ヨーロッパ中に普及していったとされる裸体主義運動も、しかし根をたどれば、急速に人工化されてゆく都市世界からの逃亡であり、人間が作った文明に対する嫌悪の表明であると考えることができうる。太陽の光を浴びて自然に還れを提唱し、不必要に覆われた肉体を自然に返すことが不健全になった精神と肉体を救う唯一の方法であるとするこの”健康倫理活動”が、ヨーロッパで強力な組織をもち運動自体も広く浸透してゆく時期と、20世紀都市の最初の完成期とが重なりあうのは決して偶然ではない。
そして広大な土地をもつ新大陸アメリカにおいては、文明社会の見かけの衣装を脱ぎ捨て、大自然のなかに身も心も溶け込ませ原始へ回帰してゆこうとするヌーディズムは、まだその都市機能が十分発達していなかった20年代、30年代ではなく、その後の急激に都市化されてゆくことになる50年代から60年代にかけて爆発的なブームとなって浮上してくるこになる。
しかし60年代以降のアメリカの裸体主義運動は、レジャー産業の介入によるコマーシャリズム、人種問題やベトナム戦争、性革命や健康革命などのなかで、巨大都市に暮らす都会人たちの病的な欲望や頽廃的な思考の翳りをすべりこませて歪曲解釈され、様々なゆがみをもった空間をキャンプ地のなかにつくりあげてしまった。極端なことをいえば、反文明を目指して自然に逃げこんできた人々は、結局自らの肉体が文明であることをやめずに、都市のなかでよりももっと明瞭な形で自然のなかに文明の形態を浸透させてしまったのである。アメリカにおいてはヌーディズム運動の不自然さがもっとも特異な形として表れてしまったのである。それは文明のなかで自然を目指す反文明の宿命的なコースだったのかもしれない。アメリカのヌーディスト・キャンプには極度の人工が斑点となって自然にばらまかれ、そのまだら模様が特異ないかがわしさを帯びていたのである。
人工意識や偽造された自然が知らずに入りこんできてキャンプ地を台無しにし、みすぼらしい物にしていった。本来の自然環境は失われ、文明化されつくした肉体だけが不恰好にコーラの瓶やセブンアップの缶やチューイングガムの紙くずのばらまかれた汚れた自然の上で醜くゆがんでその変形をあらわにした。アーバスがヌーディスト・キャンプに見たのは、そうした人工によって深く侵された人々による、まがいものになってしまった自然願望、原始憧憬の様式的な魅力であった。同じように人工に深く侵されている自らの精神に強烈な感情を喚起させる。時代の秘密を内包したヌード・ランドスケープの倒錯した美しさにアーバスは魅せられたのである。
アパチュア版の「ダイアン・アーバス写真集」には3枚のヌーディスト・キャンプを撮った写真がおさめられている。
一枚は「あるヌーディスト・キャンプの朝、退職した男とその妻、ニュージャージー、1963年」と題され、中年を過ぎ老年にさしかかりつつある一組の男女が淡い朝の陽射しの入り込むヌーディスト・キャンプのロッジの居間でソファに座って微笑んでいる姿をとらえている。移動のための車のついたブラウン管テレビ、9時22分を指し示す50年代風のカーブをもったモダンな置時計、電気スタンド、バルガスが描いたような裸婦の絵画が飾られて、ほんのりふくらんだ朝陽のなかで、たるんだ乳房やしなびた陰茎やささくれだった皮膚や膨らんだ脂肪に光があてられ、サンダルとズックを履いただけの男女の肉体の現在が静かに漂ってくる。