ダイアン・アーバスは純粋な「収集家」だった。コレクターとしてのいくつもの欲望や衝動が彼女の内部でひしめきあっていた。彼女がコレクターであることを可能にしたのは写真であり、写真家であることがアーバスの「収集家」としての純粋性をさらに徹底させ、別方向にも推し進めた。
アーバスの写真(コレクション)は「文化」を否定した。アーバスは形成の記憶の沈殿物である「文化」という概念をくつがえし、人間の意識の真正な経験層を露呈させた。ユダヤ的な性的神秘主義に導かれ、下意識の新しい相と次元の発掘を写真でおこなった。1950年代から70年代にかけてのアメリカという、自分が置かれた歴史状況に対して明晰な感情を持ち続け、非歴史的な被写体の秘められた生活を追い求めるという行為を通じて、写真というものが、それによって”「文化」のコードの網をもれてしまう「世界」”が始めて通り抜けてくる(スルーする)メディアであるがゆえに人間にとって大きな意味を持っていたのだということをアメリカの特殊な文化状況に対して衝撃的に投げかける。
それまでの文化の歴史がつくりだいしたステレオタイプが破産してしまうような境界地帯にアーバスはコレクターとして参入していった。彼女においては美しい形象、調和も、多様性の統一も知性のリズムも、感性のパターンもすべて無効である。アーバスはより本質的でスケールの大きな美を、「ドラスティック」な精神内容を激しく混入させた神秘の扉を様々に用意した。映像は生理的な認識の強さを刻印され、性神(プリアプス)的なものを浮かび上がらせる。




 


例えばアーバスはコレクターとして自室のベッドの壁にこんなものをベタベタと隙間なく貼り付けた。3千年前の女のミイラの写真、”荘厳な殺人者(マジェスティック・マダー)”とタイトルがつけられた大きな竜巻風景の雑誌の切り抜き、ジャクリーンとオナシスの結婚式の写真、フランシス・ベーコンの肖像画の写真、オーギュスト・ザンダーの双子の写真、オハイオ州のある家族のファミリーピクチャー、20人もの人間を殺害した男女カップルを撮った犯罪写真、パイ食いコンテスト写真、ビューティー・コンテスト、老人コンテストといったコンテスト写真、マグリットの石、ナチ政権下のポーランドにおける虐殺シーン、”ひょう女”の後姿、交通事故現場、リゼット・モデルが撮った肥満女、アベドンのモンロー、ロバート・フランクの黒人、ウィジーのストリート、ビル・ブラントのヌード、ブラッサイの地下のパリ、ベロックの娼婦、ラルティーグのヴィヴィ、「私は両手両足を喪失して生まれた。しかし、人生はそれでもとても素晴らしい」という見出しを大きく掲げたある雑誌の特集のカバー写真、アメリカ犯罪史上に残る有名な銀行強盗を青年、中年、老年と三段階に分けて撮った新聞写真、2万人もの人々が人型で”自由の女神”を作った第一次世界大戦中のポストカード、アメリカ南部で1920に撮影されて、まるでキリストの磔刑像のようなリンチ写真・・・・・。さらにアーバスは黒い手帳にポーやカフカやリラダンの気に入った文章をびっしりと書き込み、何十冊ものノートに撮影した人々やこれから撮りたいと思う人たちのことを細かな文字で克明に書きつけていた。
アーバスは路上においてもその独特の情熱と美しい考察で、60年代アメリカの最もアクチュアルなコレクターとなり、”新しい泉”を次から次へと発見してゆく。
ある昼下がりのセントラルパークで全身に三百六の刺青をほどこした男に出会い、彼はジャック・ドラキュラと呼ばれ、作家であり、恐怖小説の愛好者であり、降霊術の権威で、吸血鬼がまだ存在していると固く信じていることを知りアーバスは驚喜する。子供たちと怪物ゲームをするのを無上の喜びとし、蟻酸アルデヒロにつけたガラスの眼球で人を驚かすジャックは別れ際にこう言う。「なあにも、怖くない」。
夫と別居し、ミッドタウンのエレガントなアパートに犬や猫と一緒に住んでいる白人と黒人の混血ストルメ・ド・ラルヴリ嬢には地下鉄の駅で出くわした。彼女は、女性モノマネ・ショーで男性歌手のモノマネを披露して以来、ずっと男装し続けている。男装を繊細な芸術であると考え、いつも身だしなみを男のように整えるべく気づかうが、決して女らしさを抑えたりしない。彼女は温和で、やさしく、誇り高く、人種の垣根にまたがるだけでなく、性の垣根にまたがることを素直に肯定している。ある温かい春の日、アーバスと一緒に道を横断していると、バーミューダ・ショーツをはいた男がやってきたのを見てストルメ嬢はこう叫んだ。「なんて、大胆な」。
初めてウィリアム・マックの三番街にある家を訪れた時、アーバスは本当にびっくりした。7×8の部屋中いっぱいありとあらゆるガラクタがつまっていたのだ。牛の首につける鈴、イアリング、ハンマー、ピンクの人形用乳母車、ウクレレ、ブルーシールのポマード、鏡の破片、ブラシ、ワゴン、銃、ひびわれたコーヒーポッド、バッジ、狐のしっぽ、1959年の星占い、「結婚おける性の調和」、ペンチ、ネジまわし、アラビア語辞典、看護婦用の白い靴、コイン、万能クレンザー、コーランとバイブル・・・・なんでそんなものばかり集めるのとアーバスが聞くと、この”荒野の聖人”とも”雪男”とも”サンタクロース”と呼ばれる男は笑って答える。「リューマチにいいからね」。ドイツ人で、商人あがりの船員で、年金暮らしの72歳、おそろしく高貴で、巨大で、礼儀正しく、貴族のように話し、大きな袋をかついでマンハッタン中を歩き回る。語源学と哲学の研究家であり、霊体験の経験があり、アーバスはマックが一種のトランス状態におちいっているのを何度か見た。生とは解釈しよとすれば混乱のかたまりで、何も意味ぜす、有為転変するものが不易を思うことはできないというのが信念のマックは、アーバスが最後に会った時こう言った。「弱まることがなければこの世界は素晴らしい。でもみんなはいつかは弱まってしまうんだよ・・・・」。
大金持ちの「ポーリー・ブラッシング」嬢は、入れ歯と老人のかつらとビーズやブローチや毛皮やレースで仮装し、脇にパッドを入れ、ペンシルで顔を描き、「コーラ・ブラット」という別の人物に入れ変わる。その格好でパーティーやデパートに出かけ、知ることのなかった世界を垣間見る。ドーナッツを作るのが好きで、蝶のコレクターで、いつもは、マサチューセッツのピーボディの小屋に住み、蝶を追ったり、しょうが入りのパンを焼いたりの生活をしている。「ポーリー」も「コーラ」に夢中だ。ただ「ポーリー」の母親だけが「コーラ」が嫌い。「ポーリー」はアーバスに言う。「コーラはいとおしく、幸せで、感動的です。コーラに接する態度で、どれほど人間がわかるかしれません」。
アーバスはまた、自らを東ローマ帝国の正式な王位継承者であると称するロベール・ド・ロアン・クルトウス殿下にある会合で出会った。彼は左手に43カラットの真紅のルビーの指輪をはめ、全身に宝石を散りばめ、着飾り、アーバスを”ヒスイの城”お呼ばれる48丁目の彼の城に招待した。蝶の描かれた薄紫色の天井、星条旗、黄金色の装飾品、壁には自筆の夕日を浴びるニンフの絵が飾られ、ベッドのしたには「催眠術にかかったマンダリン」、「オララ・パロー」という題にまとめられた9千もの詩と創作が重ねられている。ロベールは”慈善家”として”人生の敗北者”として、バワリー街に出かけてゆき、浮浪者たちにたばこや金をめぐむ。彼に詩にこんな一節がある。「成長や環境の移り変わり、また気まぐれな幸福などとともに人生の模様も変わり、人間は矛盾だらけ、色々なドラマの不幸、幸運をくりかえす様々な役柄を演じ続けているかのように見える・・・・人間の秘密は時に隠れ、そして時は何もわかっていない。他人にとって人の過去などは伝説にすぎない。完全に理解することもせず信じ込んでしまう伝説にすぎない・・・・さよなら(オールヴォワール)」。
ある売春婦の家では、彼女のお客を彼女が撮った写真をきれいに貼り付けたカラー・アルバムを見せてもらった。ただ男たちがモーテルのベッドに腰掛けている。アーバスの記憶に強烈に残ったのは、ブラジャーをつけた一人の男だった。男は普通の男で、平凡な顔をして、あたりまえのようにしてブラジャーをつけているのである。誰もが自分にないものを、なんの気もなしにそっと手に取る時の仕草のように、ごく気軽に自然に身体につけている―――アーバスは素直にその姿に感動する。「それは息をのむほどでした。本当に見事な写真でした」。
身体障害者の人たちのパーティーに行ったこともあった。アーバスは、脳性麻痺の人はポリオの人を嫌い、彼らはそろって知恵遅れの人たちを嫌うといった話を聞きながら、次から次へと何人ものハンディキャップを背負った人々と踊る。パーティに誘った婦人がアーバスを呼びとめ、一人の老人を指し示す。「あの人はね、誰かと踊りたくて踊りたくてしょうがないのに怖いのよ」。老人は知能障害だったが、普通の60歳の男としか見えず、異常があるようには思えなかった。アーバスは彼に手を取る。踊り始めると、とても恥ずかしがりやで、まるで11歳くらいの少年のようだった。顔を真っ赤にしながら、「80歳の父と一緒にコニーアイランドに住んでいて、夏にはアイスキャンディーをうっているんだ」とぼそぼそつぶやく。そして彼は信じられないような言葉を口にする。それはこんなふうだ。「ぼくは、ずうっと心配で、ぼくはこんなんでいいのかととれも心配していたんだ。何もしらなし、だけど、もう―――」、彼の瞳が光る、「もう、心配なんかしないや」。
無垢で軽蔑され、拒絶された非正統的なものへの熱い注視がアーバスの感受性の本質的な部分をなす。具体的なもの、特殊なもののなかに特別な引力があると考える集中と凝縮がアーバスの基本だった。
視線はいつも精神の内側から注がれ、彼女の視野の限界をなす緑を遠くのりこえ、そのはるか外にまで達していた。そうした領域にまで至る道は、想像以上の困難や偏見をしりぞけて、アーバスが自力で自らの内部に追い詰めながら切り開いた。そのためには最高のコレクターの絶対条件である狂気と紙一重の情熱が要求されたのはゆうまでもない。



 

ダイアン・アーバスは「世界」にのりだし、痛ましくも美しい映像を収集し続けた。アーバスの写真を見て、鋭い緊張感を感じるのは、そこに彼女の意識が累積してゆく過程が鮮明に刻印されているからである。アーバスの写真によって心が締め付けられるように感じるのは、被写体の強烈さではなく、アーバス自身の「距離」の崩壊のプロセスがしるしとなって浮き出ているからなのだ。写真に示されているのは、小人でも、巨人でも、ヌーディストでも、レズビアンでもなくまさに個人的な関係の視像である。
アーバスの写真はすべてセルフ・ポートレイトの影をたたえる。セルフ・ポートレイト写真を撮影するには、自動シャッターを使ったり、ゴースト・フォトグラファーを頼んだりする方法の他に、鏡や金属、ガラスなどに映したリフレクションを撮る方法があるが、アーバスの自写像の方法はこの三番目の方法の応用であったと考えることができる。特別な状況のなかにいる特別な人々の姿に影や反映を見つけた時にだけ、彼らの精神生活に自分と重なるものを見つけ魅せられた時にだけシャッターは押された。眼差しを向けるものが眼差しを向けられる者となる。アーバスは自分を収集するコレクターとなる。
ニューヨークの女装舞踏会、福祉宿泊所のヒッピー、犬を連れた両性具有者、メリーランドのカーニバルの人間針刺し、白子の剣飲みこみ少女、ペンシルヴェニアのヌーディスト・キャンプ、ディズニーランドとハリウッドの人気のない虚飾の風景、化粧室のストリッパー、マンハッタンのホテルのメキシコ人の小人、トッド・ブラウニングの映画「フリークス」「の主人公の40年後の姿、公園のベンチで言い争っている年配の夫婦、思い出の家で犬と暮らすニューオリンズの女バーテンダー、セントラルパークでオモチャの手榴弾をにぎって硬直する男の子、どこかわからないボッとした闇に包まれた精神病院・・・・・・「アイデンティティというのは私たち各々がすべて持っているものなのです。避ることはできないものなのです。付加物をすべて取り去ったあとに残されものです。」
アーバスが精力的に写真を撮った60年代の写真史を通観してみると、この時代のコンセプトは写真の無名性、新しい記録性いうことに重点が移行してゆき、主体性が希薄化してゆく変化をはっきりたどることができる。
しかしアーバスの写真は、そうした流れのなかにあって、ほとんど例外的にアイデンティティを徹底的に追求し続け、独自な光輝を放つ。アーバスは様々な人々を撮ったが、常に分類できない人、測り難い人を被写体とした。それがまさに自己同一性をもつ「唯一者」であり、彼女の唯一無二の欲望に奇跡的なまでにぴったりと呼応する特別なイメージであり、自らを映す鏡であったらかこそ、アーバスはそれを撮ったのだ。
長い間、アーバスは夫とともにファッション写真を撮り続けた。ファッション写真は、その内容をいわばカッコに入れ、非現実化し、「距離」を介在させることで成立する写真体系である。と言うより、写真そのものが、人間が麻酔にかけられた安全な領域なのである。「おかしなことにピントグラスを見ている時は怖いと思ったことはないのです。銃をもった人が近づいてきたとしても、ファインダーをのぞいている限り怖いことはないのです。」アーバスはそこから脱け出たかった。麻酔を解かれ、外気と触れたいと願った。しかし、被写体と限りなく近づこうとしながら、アーバスの整理には、モード写真的な距離感がしみこんでいた。覚醒され、その世界そのものとむきあおうとしたにもかかわらず。結局アーバスは、自らのなかに根深くその原理を持ち続け、そこから逃れることはできなかった。アーバスの悲劇はその点にある。
アーバスの最後の、最も衝撃的な作品郡においては、彼女の自意識のコントロール機構が突然、魔術的な力によって効力を失ってしまう。薬品をかけられた印画紙が急激な化学反応変化を起こし微細な物質に変貌してゆくように、アーバスの精神は、<対象>と<カメラ>と<眼>を結ぶ線から流れ込んだ作用によってまたたくまに変色していった。空白状態に投げ出されてアーバスは強引な吸収力によって向こう側へ引き込まれてしまう。「アンタイトルズ」と名づけられた彼女の遺作は、写真をとるということが外部空間の力動学を起こさせる事件であるとともに、精神の内部の亀裂を生じさせるパニックにもなりうるということを鮮明に証明している。写真撮影は本質的には現象に対して不介入の行為であるが、カメラを装置にしてその間の「距離」をすり抜けることができる。写真機をのぞくことによって中間状態に拉致され、そこにおいてまったく別の角度から現象そのものに参入し、精神をやられてしまうことがアーバスの特別なアプローチにおいて起こってしまった。彼女の写真の一枚一枚が、彼女にとってその行為がどれほど危険のなものの連続であったか見事に照らし出している。あれほど厳密なピントにこだわり、細部を強調していたアーバスがここでは、ゆらぐようなアウト・オブ・フォーカスに変わり、線が暗い大気とこすれあう。アーバスは現象のただ中に分け入る気はなかったのだ。ファインダーごしに外から、今まで誰も近づけなかった「距離」で、恐れずに眼差しを真正面から向けて見ることが彼女の写真性だった。しかしあまりに近づきすぎてしまったため、対象の驚異的な真空性と吸引力によってそれがこわれる。対象への意志ばかりがボーした闇のなかで輝き、その意志ゆえに真空を漂流する。アーバスはその時、自分の身に何が起こったのかをはっきりと理解したのだと思う。そしてそれを一瞬のうちに分析し、知覚し、写真という客観的で冷静な言葉で表現した。”わたしを解体すること、そのもの”である。アーバスの写真は、「私」の全面崩壊という彼女のプロセスを彼女の意図とは別に完全に作品化している。
向こう側にいった多くの人々がいるが、彼らはなんのしるしも残していない。しかし、ひとりアーバスだけは、写真家であり、コレクターであり続けたアーバスだけが、その意志の記憶の痕跡を静かにつけている。アーバスがぼくにとって常に複雑で錯綜した位置にあるのはそうした意味においてである。行こうとして行けなかった人としてのアーバスと行きたくないのに行ってしまった人としてのアーバスがいて、そのバブル・ヴィジョンは重なりあうパラドックスとなって、ぼくの自意識の最下層へすべりこむ。






ハドソン河に近いさびれたストリートに面するあるビルの地下にダイアン・アーバスの暗室はあった。階段を降り、ビルの地下の通路を通り抜けると、ゴミ缶やコンクリートの塊の散らばる中庭にでると、その一角にたてつけの悪い黄色いドアが見える。さびついた小さなエアコンがガーガー鳴って、その滴がドアの隙間から暗室へと流れ込んだ。内部は20畳近くあるだろうか、天井にはむき出しのパイプ管が入り組み、そこから油の混じった水滴がたれていた。
引伸ばしタイマーの後ろには油と埃にまりれた覆い焼きと焼き込みのための小道具がならんでいる。埃のかぶっているのはアーバスのファッション写真家時代のものだ。その仕事をやめてからは、彼女は印画作業ではストレートな技術しか用いないようになった。室内の壁はレンガで、白いペンキがはげかけていた。棚があり、テーブルがあり、水洗のための流し場がある。すべて古びて今にもこわれそうなものばかりだ。大きなファイルキャビネットには、アーバスが1956年から1970年のかけて撮影した12万枚のネガがきれいに仕分けられてあさめられている。
壁にピンでとめられた現像液の処方、セレクトール・ソフトとラベルのついて白いビン、デクトールの一杯入ったタンク、そして様々な薬品と計量器・・・・・どの印画紙にどの現像液を組み合わせるのかはそれぞれの写真のもつ”感触”によって定められた。写真一枚一枚にそれぞれ特有の質をもたせようと、アーバスは明暗の微細な印画紙を吟味し、現像液を精選し、一枚の写真が完全に自らを語りつくすことができるように暗部と明部の質を丹念に磨きあげていった。この闇のなかでアーバスははるかな神秘をずうっと見ていたのである。ダイアン・アーバスは1923年3月14日、ニューヨーク市で生まれた。彼女の生い立ちとその後の軌跡との関係は重要である3人兄弟の2番目で、父親のデェイビッド・ネメロフは五番外にあるラセックスという大きなデパートの持ち主だった。幼年時代はセントラルパーク・ウェストの高級住宅街でなに不自由なく育つ。
「子供の頃、悩んだのは自分が不幸だと思ったことが一度もないということでした。現実をあるがままに認めようとせず、現実の外の世界にいたから痛手を負うことがなかったのです。しんじられないことでしょうが、それはひどい苦痛にみちたものでした。まるで長い間自分の王国を継ぐことができないでいるかのような、とでもいうべきでしょうか、自分とは関係なく世界は世界だけに属しているように思えたのです。物事は習い思えることはできても、それは決して自分の体験とはならないように見えたのです。」
「世界」に介入するための道具としての写真、アーバスの写真をとることのひとつの必然性をそこに見ることができる。
写真家のアラン・アーバスと出会ったのは彼女がフィールドストン・スクール在学中の14歳の時だった。早熟な少女はその4年後に彼と結婚する。「ハーパース・バザー」誌の名アート・ディレクターとしてアベドンやペンら数多くの著名な写真家を生み出し一世を風靡したアレクシィブロドヴィッツに写真の指導をうけながら、アランとダイアンはともに20年近くにわたってファッション写真家として「エスカイヤ」誌や「ハーパース・バザー」誌、「ショー」誌や「ロンドン・サンディ・タイムス」紙などで活躍したが、その後離婚する。アーバスは1959年からひそかに敬愛したいた女流写真家リゼット・モデルに師事し、本格的に純粋写真をを探求し始める。63年、66年とグッゲンンハイム財団の奨学金を受けて活動に専念、アメリカ中を巡り歩いて写真を撮った。この間、パーソンズ・デザイン学校、クーパー・ユニオン学校、で教壇に立った。70年にはニューヨーク近代美術館のジョン・シャーカフスキーにより、ゲーリー・ウィノグラント、リー・フリードランダーと3人展「ニュードキュメンツ」展が企画され、彼女のそれまでの作品の一部が初めて発表されている。。しかし、その1年後の71年7月26日、グリニッジ・ビィレッジの東にある芸術家のための住居共同体アパート”ウエスト・ベル”の自室の古びたバスタブのなかで手首を切って自殺する。48歳だった。
「彼女の生活も、彼女の写真も、彼女の死も、何一つ偶然なものではなく、尋常なものはない。それらはすべて神秘的であり、想像をこえたものである。それは彼女に天賦のものだったような気がする」と友人のアベドンは言い、「それまで誰も、アーバスのように真正面から真理を撮った人はいなかった。彼はみな真理を見ないですませ、別のものをデコラティブの飾り立てていただけ。アーバスは偉大な写真家だった。苦痛はいつも彼女のまわりにまとわりついていたけれど、でも彼女は勇気をもって撮ろうとしたのよ」と師リセット・モデルは述懐する。
裕福なユダヤ人家庭に生まれ、ニューヨークの道徳文化スクールに学び、ノヴァーリスの「道徳論」を教え込まれ、ユダヤの過大に発達した道徳的感性にはぐくまれんがら、アーバスはそうして自らの体内に根付いているものに対する対抗を次第に露にしていった。カメラのファインダーを通して獲得される現実感覚によって自分の純白の境遇を犯し、ユダヤ人に特有な極端な安全保障への欲求の連鎖をたちきろうとした。しかしその勇気と冒険とあh裏腹に、アーバスの内実は驚くほど抵抗力がなく、ヴァルネラブルな存在であったように思える。
ユダヤ人は極限の苦しみや圧迫を受けとめる2つの方法を知っているという。ウィットと神秘主義・・・・・アーバスもまたこの2つに激しく憑かれた。アーバスの奔放なウィットとジョーク好きは有名である。ウィットとは抑圧が認識され、それを拒絶しようとする時に起こる。秘められたものを明るみに出す行為である。「なぜ、バナナを耳に入れているの」「ごめんなさいバナナが耳に入っているので聞こえないの」。アーバスはこのジョークが大好きだった。ウィットとユーモアはユダヤ人が耐え難いほどの苦痛を克服する手段となる。そして現実がさらに耐え難くなると彼らは神秘を求めた。
アーバスの写真は社会的という以上に個人的な問題であり、視覚的というよりもむしろ心理的な密着であり、風俗や奇態ではなく原型を捉えようとしたものであり、現実的というよりはるかに神秘的である。社会には神秘が含まれいないが、アーバスの視線は社会を透過し、その奥行きのなかをうごめくミスティックなゆらめきを見ようとした。その写真一枚一枚が日常生活のなかでは決して味あうことがないだろう内的な真理の翳りを宿し、肉眼では決してたどることのできない精神の形象を震わせている。アーバスは社会神秘学の果てに、写真を通して異次元の精神的なものの核心に合流してゆく方法を見つけだした。この方法で捉えた闇は、どんな「象徴主義」より密接に時代精神と対応していて、その状況を明示する鋭いシンボルのように見える。
アーバスの写真は、神秘のイコノグラフィであり、負の原風景である。このコンテキストは完結することはなく、その混乱はなまなましい現実の体験となり、覚醒の感覚となり、写真が本来持つ強いアクチュアリティをよみがえらせる。ダイアン・アーバスは、多くの根源的なものをちりばめながら、写真をそれまでとはまったく異なった新しいレベルにおける比類ない表現形式に押し上げた。
鏡は割れてしまったのだが、写真という”記憶をもった鏡”だけは、夜の歩哨が次の歩哨へ伝えてゆく秘密の合言葉のように、自律した流動する自然言語となって、闇のなかでまだ光り輝いている。



「かつて私は夢を見ました。ウェディングケーキのように真っ白で、絢爛としたキューピット模様で飾りたてられた
ロココ調の船に、私はのっているのです。室内には煙がたちこめ、船客はお酒を飲みギャンブルをしていました。
船は火事でゆっくり沈んでいるのを私は知っていた。人々もそれを知っている、がしかし陽気に踊り歌いキッス
してうかれていました。希望はありませんでした。でも私はおそろしく興奮していました。撮りたいものがなんでも
撮れるのです。」(ダイアン・アーバス)




聖なる香りのなかにいる
ダイアン・アーバス(2) 

(伊藤俊治 写真都市・ミラーイメージの収集家達)
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