発見されたオブジェ(2)ユージンヌ・アッジェ
−−−(抜粋)写真芸術論(重森弘淹)より
アッジェの作風はウェストンと対照的というよりも、まったく異質である。かれの静物の記録があるが、ここには明らかに詩的幻想感が漂っている。
また、かれのシュウ・ウィンドウの風景はいつも現実と非現実が交錯している。またかれの街頭風景にはアンリ・ルソーのような素朴でアンチームな雰囲気が流れている。
アッジェのパリの風景記録は、当時の画家や小説家、舞台装置家、好事家(物好き)たちに提供するものでありながら、いちはやくシュール・リアリストたちを戦慄させた。
アッジェもまた対象の物質性質をシャープなピントで再現した写真家であるが、しかしウェストンのような即物的な態度は見られない。ウェストンは事物の基本形態へとぎりぎりに対象のフォルムを単純化してゆくが、アッジェは対象を情景としてとらえようとした。ウェストンが対象のフォルムの追求から、一途に事物の核心に切り込んでゆこうとする態度とは逆に、アッジェは路傍の事物を日常的な情景としてとらえながら、微妙にその日常性を剥奪する。道具屋の古道具や、掘立小屋をなんでもない情景として記録しながら、そこには現実と非現実が妖しく交錯する。
その点でアッジェは日常性を主題として開拓した最初の写真家といえるだろう。かれは熱心に日常的モチーフを採取している。かれによって取得された卑近な事物は、たちまち非現実的な色彩を帯び始めるのである。
こうした非現実感の表現はどんな手法によるものなのだろうか。かれの作品のピントは深く、主材の背景の微細なものまで焦点があっている。ウェストンが事物のディティールを微視的に拡大したように、アッジェは情景のディテールを再現する。それらのディテールは主材とかわりあいがない。あるいは偶然に存在したにすぎない。かれが狙った対象、たとえば人物などは明らかにカメラを意識している。露出時間の長くかかるカメラだからそれは仕方がないとして、しかしカメラはまさに人物を凝視しているが、しかもその人物を囲む環境のディティールが再現されていることで、人物はむしろ孤立するかのごとくきわだって対象化されている。
背景のディティールまでアッジェがはたして意識していたかどうかはわからない。しかし背景のディティールが、主材にどのような影響をおよぼすかは意図していたであろう。
さてウェストンの作品に強くフォルムを感じるとすれば、アッジェのそれには空間をより感じさせる。というのも、事物を情景としてとらえているからこそであろう。さらにアッジェには、カメラの位置、すなわちアッジェの位置が感じられる。かれと対象との距離には、つねにある寂寛たる雰囲気がある。一言にしていえばアッジェの空間は寂寛たる空間性であり、それはかれの対象観につきまとっているものということがでくるであろう。もしかれが対象に向かって挑戦してゆくような形の写真家なら、おさらく対象との距離をつめ、即物的なとらえ方になるであろう。しかし、アッジェの場合はつねにある空間を置いて対象を見ている。
さらに対象を真正面から直接的にカメラにむけず、カメラの位置を対象に向かって斜めにセットするとうような独特のカメラ・ポジションとカメラ・アングルにも見られる。
それはたんに対象に立体感を与えるというような理由にだけよるものではあるまい。むしろ対象を通り過ぎてしまうような地点であり、あるいはまたより多くのものが見通しうるような場所でもある。通り過ぎるような地点とは、ふとそこでたちどまった地点でもあり、それが対象を無理矢理に意識させようとするまさに正反対の手法であることは明らかであろう。こうしたさりげなさを装うカメラ・アイがベンヤミンをして「ひとかげのない犯行現場」のような写真だといわしめたのではないだろうか。
また多くのものを見るアングルとは、先述した情景のディテールのより多い再現につながるものといえるであろう。
いずれにしても、アッジェの世界は道洋画家に通じる素朴な雰囲気のなかに、寂寛たる空間が展開している。しかも、かれの世界はつねに情景のディテールに気持ちがそそがれ、そしてそこには超現実的な気分がただよっている。ときに彼の静物は、幻想的なオブジェとして、われわれを誘いこむ。このようなアッジェの日常世界の彼岸にある非日常的な世界の詩的な展開がわれわれをひきつけてやまないのである。